日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA 経験を伝え、想いをつなぐ。

#8 加藤好男

かとう・よしお/1957年生まれ。埼玉県出身。大阪商業大を卒業後、1980年に古河電工に入社しサッカー部に入部。ゴールキーパーとして、晩年の日本サッカーリーグを戦う古河電工サッカー部の守護神として活躍し、日本代表にも名を連ねた。1993年のJリーグ開幕イヤーはリーグ最年長選手として注目され、その年限りで現役を引退。以降は指導者として育成年代の日本代表でゴールキーパーコーチを務め、2006年からは日本代表コーチに就任。2010年の南アフリカW杯に帯同し、古河電工の同期でもある岡田武史監督を支えた。以降は日本サッカー協会に所属するゴールキーパーコーチとして指導・育成・環境整備など、さまざまな角度から日本サッカーの発展に寄与している。

浦和、東京、大阪、再び東京

1歳半から育った浦和の町は、当時から国内屈指のサッカーどころでした。

埼玉県内には全国優勝経験がある浦和市立高校や浦和南高校があり、エースとして浦和南高を全国制覇に導いた永井良和さんはサッカー少年にとってのヒーローでした。昔、浦和駅の近くに名店センターという7階建てのビルがありましたよね。中学サッカー部の仲間と一緒に電器屋さんのテレビの前を陣取り、みんなで浦和南を応援したことをよく覚えています。

そんな背景があったからこそ、浦和南高から推薦入学のお誘いをいただいた時は本当に嬉しかった。しかし、当時の私は違う道を選択しました。進学先に東京の本郷高校を選んだ理由は、たまたま目にしたサッカー雑誌にありました。本郷高校が4年連続で帝京高校に敗れて高校サッカー選手権への出場を逃していることを知った私は、「よし、俺が全国に連れて行ってやろう」と思い立ったわけです。たったそれだけの理由でした。

ちなみに大学は大阪商業大学を選んだのですが、その理由もまた、監督から「関東の大学に勝てないんや。一緒に倒さんか?」と誘われたことにありました。つまり、ちょっとした天邪鬼(あまのじゃく)なんですね(笑)。サッカー人生においては、昔からそうして自分らしい選択をしてきた気がします。

大阪商業大学時代の4年間は、兵庫県尼崎市を拠点としていたヤンマーディーゼルサッカー部の練習にもよく参加させてもらっていました。当時の監督は、のちにJリーグチェアマンを務められた鬼武健二さん。チームの絶対的なエースストライカーはあの釜本邦茂さん(通称、ガマさん)で、ゴールキーパーである私は、ガマさんのシュートを受けることが本当に楽しみだったのです。そうした積極的な姿勢が認められたのか、先輩たちからは「お前はヤンマーに来るんだぞ」とよく言われていました。

しかし、私は古河電工サッカー部に入ることを選びました。

少年時代からの憧れである永井良和さんがいらっしゃること、大学選抜チームやU-23日本代表でも監督と選手の関係でお世話になった鎌田光夫さんが古河電工の監督を務められていたこと、それから、古河電工という会社が日本の産業を支える素晴らしい会社であると知ったことが決断の理由だったのですが、もちろん、ヤンマーさんからは「どうして来なかったんだ」としばらく言われ続けました(笑)。

1980年入社の同期には、田嶋幸三、吉田弘、山下千佳久、そして年は1つ上の岡田武史というメンバーがいましたね。彼らとはそれ以前から大学選抜などで一緒にプレーしていたのですでに痛快な間柄にあったのですが、学生時代から「サッカーは大学まででやめる」と豪語していた岡田さんがいたことには驚きました。

岡田さんは「俺は社会人になったら仕事に集中する。だから大学時代はサッカーに集中する」という話をよくしていましたし、当時から周囲とはまったく違う感覚を持った人でした。“社会”に対するアンテナがものすごく敏感で、僕らがサスペンス小説を読んでいる時に、岡田さんは日経新聞とにらめっこして為替変動についての自論を展開していました。

ちなみに大学受験で1年間の浪人生活を送っていた岡田さんは同期とはいえ1歳年上なのですが、大学選抜などで一緒にプレーする時は「遠慮するな。『岡ちゃん』と呼んでいいから」と言ってくれていたんです。ところが、古河電工に同期として入社すると「いつまで馴れ馴れしくしとるんや!」と怒られてしまいまして……。以来、「岡田さん」と呼ぶようになりました。あの特別な存在感は、今も昔も変わりません(笑)。

“研究”を重ねた6年間

ゴールキーパーを始めるきっかけは「ダマされたこと」だったんです。

足が速くて、ボールを蹴るのが得意でした。だから小学5年生まではウイングのポジションでプレーしていたのですが、ある日、6年生のゴールキーパーがケガで試合に出られなくなってしまって。その時、監督にこう言われました。

「加藤、ゴールキーパーはひとりだけ違うユニフォームを着られるんだ。目立てるぞ。ゴールキーパーの背番号は何番だ?1番だろ?野球のピッチャーだってバレーボールのエースアタッカーだってみんな1番じゃないか。どんなスポーツでも1番の選手の出来で試合が決まるんだよ」

その言葉を聞いて、すっかりその気になってしまいました(笑)。

運が良かったんです。高校時代は同級生のライバルが次々にやめてしまって、そこに先輩たちのケガが重なり、すぐに試合に出られるようになりました。
きっかけは1年時の関東大会。高校サッカー界屈指のストライカーだった西野朗さんを擁する浦和西高と対戦することになって、「お前は浦和出身だから西野のことをよく知っているだろ?」と。それが私にとってのデビュー戦でした。大学でも1年時から試合で使ってもらっていたけれど、私が飛び抜けて優れた選手だったわけではありません。

一方で、古河電工に入ってからは定位置を掴み取るまでに時間がかかりました。

1年目はマツダSC(現・サンフレッチェ広島)戦で初めて試合に使ってもらったのですが、その試合で5失点も食らってしまいましてね。それからの6年間でリーグ戦での出場はたったの5試合。しかし、「どうして?」と思われるかもしれませんが、私自身にとって、この試合に出られなかった時間は最高の時間とも言えるものになりました。

その6年間、私はとにかく自分自身と向き合いました。

当時の古河電工には淀川隆博さんや佐藤長栄さんという素晴らしいゴールキーパーがいらっしゃって、ほとんど運だけで何とかしてきた自分とはものすごい差がありました。だからこそ、自分自身の足りないところに目を向けて「ゴールキーパーというポジションをより深く研究しよう」と考えたのです。例えば、今日のトレーニングで何本のシュートを受けて何失点したのか、淀川さんや佐藤さんは何失点したのかを数えてみるところから始めて、真剣にデータを蓄積してみようと。

運動生理学など、パフォーマンスに直結する専門分野の書物も読み漁りました。「腕立て伏せ30回!」と言われたら、どういう意識を持って取り組めばより効果的なのか、そのために適した呼吸法はあるのかなど、研究意識を持ってトレーニングに取り組むようになりました。

運動生理学を学ぶと、今度は“身体そのもの”に意識が向き、血液や食事に対する関心が沸いてきました。そんな時に『食べて勝つ』という本に出会い、著者である女子栄養大学の小池五郎教授を訪ねていろいろなことを教わりました。そうして“自分にとってのベストコンディション”を探り続けるうちについに試合に出られるようになり、古河電工サッカー部にとってのメモリアルな瞬間である1986年アジアクラブ選手権優勝の瞬間には、正ゴールキーパーとしてピッチに立つことができました。

  • 食べて勝つ/ロバート・ハーツ 著、小池五郎 監修 1985年講談社出版

私にとって、ほとんど試合に出られなかったあの6年間はサッカー人生において非常に価値のある時間でした。大学の先生方とのお付き合いが広がり、研究のための“被験者”としてさまざまなデータ提供にも協力させていただきました。その経験は、私にとって大きな財産になりました。

最年長Jリーガーになる決意

古河電工の社員として最初に勤務したのは、金属事業部の特殊金属を扱う営業部門でした。

上司である課長は西本八壽雄さんというサッカー部OBで、社業の傍ら日本サッカーリーグを事務方として支えてきた功労者でした。だからこそ、仕事に対しても本当に厳しかった。私が提出する手配書や報告書はいつも「やり直し!」と突き返されていました。

もっとも、仕事そのものは楽しくて仕方ありませんでした。

少しずつ慣れて仕事の量や責任が増してくると、「必要としてもらっている」という実感が沸いて一層やる気が高まりました。1年目は怖くて電話もまともに取れなかったんですよ。得意先から「◯◯◯を◯キロ」と発注されるのですが、それが金属に関する専門用語ばかりで難しく、なかなか聞き取れなくて(笑)。高校時代に勉強した元素記号がまさか仕事で役立つとは思わずイチから勉強し直す日々で、とにかく慌ただしく、必死になって仕事をこなす毎日でした。

でも、そんな日々が人生の糧となったことは間違いありません。

得意先と工場の間に挟まれる立場で、常に納期と向き合わなければならない大変な仕事でした。私はグループ会社の担当だったので、古河電池さんや富士電機さんとお仕事をさせていただいたのですが、ものづくりの現場である工場に行けば、その大変さがすぐにわかります。自分のミスで工場の作業を1日でもストップさせてしまったら大変なことになってしまう。いろいろなところに頭を下げながら、ものすごく貴重な社会勉強を積ませてもらいました。

特別な思い出ですか?そうですね……。サッカー部に所属しているとはいえ、社業にも真剣に向き合っていれば次第に立場が変わっていきますよね。当時のサッカー部員は20代後半まで頑張って、引退後に社業に専念するという流れが一般的だったのですが、私は30代半ばになっても両立していました。課長補佐という肩書をいただきつつサッカーにも真剣に取り組んでいたのですが、昼に練習をして会社に戻って来ると、たった数時間のうちに仕事の情勢が大きく変わっているんです。それに対応することがとても難しかった。

Jリーグ発足によるプロ化の直前では、自分自身の身の振り方について真剣に悩みました。

サッカー選手としてのキャリアを終えて社業に専念するか、30代半ばにしてプロサッカー選手になる道を選択するか。ところが、道を決めかねて悩んでいたある時、仕事で大チョンボをやらかしてしまうのです。図面にまつわるちょっとした見落としが原因となり、本来発注すべき規格とはまったく違うものを発注してしまって……。ミスに気づいたのは発注後のことで、すべてをイチからやり直さなければならないという大ピンチを招いてしまいました。

それは1991年末のことでした。私はサッカー部の一員として同じ時期に行われていた天皇杯を戦わなければならず、結局、直属の上司に、韓国まで出向いてすべてを対応していただくことになりました。その時に思いました。「絶対に迷惑をかけられない。中途半端な気持ちでできることじゃない」と。

そうですね。もしかしたら、あのミスがあったからプロサッカー選手になることを決断できたのかもしれません。自分はサッカー選手としての能力を買ってもらったから古河電工に入社することができた。だからこそ、それを評価してもらえるうちはサッカー選手として先に進もう。そう考えました。

お世話になった先輩、上司、友人など、いろいろな人に相談しました。もちろん、「やめておけ」という人が大勢いました。「年齢を考えろ」「明日ケガしたらどうするんだ」「お前にも家族がいるだろ」と言われました。「管理職になっているんだから無理する必要はない」「社業のどこに不満があるんだ」という意見もありましたね(笑)。

チームがプロ化するといっても選手全員がプロ契約を結んだわけではなく、そのタイミングで社業に専念した選手もいました。私は選手側の意見を取りまとめる立場を引き受け、弁護士の先生にサポートいただきながら会社とクラブに対して選手、または社員の処遇・待遇に関する要望書を提出しました。それに対して、会社とクラブからは「これ以上ない」と言える最高の返答をいただきました。

プロ契約当時の1992年は35歳で、もちろんチーム最年長でした。自分にとって大きな決断でしたが、不思議と不安はありませんでした。そうして迎えた1993年のJリーグ開幕でした。

イングランド留学で感じた“ギラギラ感”

話を少し戻しますが、日本リーグ時代に行かせていただいたイングランド留学も人生における大きなターニングポイントのひとつでした。

同期メンバーからは、最初に田嶋幸三がドイツのケルンに行き、そのあとに岡田武史さんがブラジルに行きました。それから1期後輩の小林寛がイングランド留学の第1号として、さらに私が第2号としてウェストハムに行かせていただくことになりました。

そうそう、留学に際して自分の頭の中にあるサッカー理論をノートに書き出してみたんですよ。原稿用紙にして25枚程度の内容だったと思いますが、それを高校時代の先生に英訳していただき、ウェストハムのジョン・ライル監督に手渡したのです。「これから2カ月間よろしくお願いします」という挨拶に「ちなみにこれが私のサッカー観です」というひとことを加えて(笑)。

今になって思えば、ものすごく大胆なことをしました。後になって、ライル監督からは「あの論文を見て『面白いヤツが来たな』と思ったよ」と言われました。彼とはそれからずっと交流があり、私が現役を引退する際には報告に行きましたし、指導者を目指すことを決めた時にも話を聞きに行くまでの仲になりました。

“プロ意識”という意味においては、日本から来た私と、ウェストハムでプレーする選手たちのそれはまったくの別モノでした。

ユースチームからトップチームの練習に参加している17歳の少年が、本当にギラギラした目つきでトップアスリートに向かっていく。彼らに話を聞くと「ここで成功しなきゃ俺の人生が終わる」と、真剣な顔でそう話すのです。まさにホンモノの世界に触れた気がして私自身もどんどんのめり込んでいきましたし、それまでの自分の感覚がいかにアマチュア的であったかを痛感させられました。

もっとも、本場と比べて大きな差があったことは否定できないとはいえ、当時の古河電工サッカー部の面々も個性豊かで、魅力的で、実にギラギラとしていたことを思い出します。

絶対的なフィジカルの強さを誇るセンターバックの金子久さん。クレバーなプレーと抜群のリーダーシップでチーム全体を統率する岡田武史さん。前線には右に永井良和さん、左に奥寺康彦さんがいて、ゴール前にはいかにもストライカーらしい吉田弘がいました。それぞれが自信に満ち溢れていて、でも互いをリスペクトしながらプレーしていた。ゴールキーパーとしてチームの最後尾にいる私は、いつもラクをさせてもらっていましたね。もちろん、監督である清雲栄純さんのマネジメントも見事でした。

これは余談ですが、ピッチの中だけでなくピッチの外でもよく岡田さんに助けていただきました。同じ社宅に住んでいたこともあって家族ぐるみの付き合いをさせてもらいましたし、子どもの面倒を見てもらうことも何度もありました。同期メンバーの家族で毎年のように開催していたクリスマス会も楽しかったし、サッカーだけでなく、いろいろな時間を共にしました。本当に楽しく、充実した時間でした。

Jリーグデビュー、引退、転身

開幕当初のJリーグの華やかさは、それはもう強烈でしたね。

1992年にチーム名がジェフユナイテッド市原に変わり、練習場が舞浜に移ったことで浦安市に引っ越すことになりました。1993年にJリーグが開幕して大ブームになると、ある日、自宅ガレージの扉に引っかかっている大きな袋を発見しました。中を覗いてみるとたくさんの色紙が入っていて、同封されていたメモに「リトバルスキーのサインをください」と書いてある。これには驚きました。「俺じゃないんかい!」と(笑)。

当時はどこに行っても“見られている”という感覚で、スーパーに行っても買い物カゴの中を覗かれているようなプレッシャーを感じていました。簡単に外出ができなくなってしまったので、すべての選手がものすごいストレスを感じていたと思います。でも、その一方で、そういった環境の変化によって「プロになった」という実感を持つこともできました。

プレーヤーとしての私は1989年に下川健一が加入して以来、出場機会がかなり少なくなっていたのですが、Jリーグ開幕イヤーの1993年、6月の浦和レッズ戦で下川が大ケガをしてしまったことで突如として出番がめぐってきました。

ケガのシーンを目の前で見ていた私は、すぐにグローブを装着してピッチに向かいました。浦和駒場スタジアムは小学生時代から慣れ親しんだ場所だったので、「プロとしてここに帰ってくることができた」という感慨もありました。

結局、1993年は残りの全試合にフル出場しました。「やり切った」という思いで引退を決意し、現役時代から意識し、準備してきた指導者の道に進むことを決めました。

しかし、当時は日本でのライセンス取得がそれほど簡単ではなく“順番待ち”の状態が続いていました。じっとしていられない性格の私は、すぐに海外に目を向けてイングランドに向かいました。そこで「UEFA B」というライセンスを取得するのですが、その過程で目にしたのは日本とヨーロッパにおける指導者養成の仕組みの違いでした。

指導者養成においても、日本は明らかに大きな後れを取っていました。当時すでに日本サッカー協会で仕事をしていた田嶋幸三や小野剛もまさに同じことを感じていて「この状況を絶対に変えなければならない」という思いを共有しました。1995年のことでした。

ありがたいことに、ゴールキーパーコーチとしての私の仕事ぶりを「理論派」と評していただくことが多いのですが、トレーニングに対するアプローチは自分の経験や興味をすべて組み合わせたものだと思っています。

1990年のワールドカップ直前にはイングランド代表の約1カ月間のキャンプに帯同するチャンスが舞い込んできました。そこで目にした世界的名ストライカー、ゲリー・リネカーとピーター・ベアズリーの2トップのコンビネーションは、ゴールキーパーとしての動き方や守り方のヒントになるものばかりでした。

当時のコーチだったマイク・ケリーさんはプロとしてのゴールキーパー経験者ではなく“動き”を専門とする研究者で、彼とのゴールキーパー談義には本当にたくさんの学びがありました。この学びから得たさまざまな視点を組み合わせて落とし込むのが自分流で、ゴールキーパーだけでなくいろいろなポジションの選手たちとも向き合えたことは幸運でした。

あらゆる角度から体験したW杯

指導者としては主に育成年代の日本代表チームで活動してきたのですが、キャリアのハイライトと言えるのは、2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムさんの下でゴールキーパーコーチを経験させてもらえたことだと思います。

オシムさんのサッカーに対する考え方や指導にまつわるアプローチは、それまで私が経験してきたものとはまったく異なるものでした。大袈裟ではなく、何もかもが違う。毎日が発見や気づきの連続で、本当に刺激的な時間でした。

2006年8月キリンチャレンジカップ 日本 vs イエメン(新潟スタジアム)日本代表ベンチの様子。
一番左がイビチャ・オシム氏、一番右が加藤好男氏

2007年11月にオシムさんが脳梗塞で倒れてしまった時のことも忘れられません。

後任を引き受けた岡田武史さんの覚悟は並大抵のものではありませんでした。

最終的な決断を下す前に、日本代表の全コーチングスタッフとの2泊3日の“ミーティング合宿”が行われました。サッカーに対するそれぞれの考え方をぶつけ合った上で、岡田さんは全スタッフに「日本代表でオシムさんがやってきたこと」をプレゼンさせたんですよね。つまりあらゆる角度から見た“イビチャ・オシム像”を明確にし、はっきりと理解した上で後任を引き受けることを決断した。「でも、たぶん、俺にはオシムさんと同じことはできないぞ」と前置きした上で、自分が理想とするサッカー、日本代表チームとしてやるべきサッカーについて全スタッフに話してくれました。

私にとって岡田さんは古河電工サッカー部の同期で、同じ釜の飯を食ってきた仲ですから、もちろんすべての力を出し切るつもりでした。ただし、そうしたバッググラウンドがあるからといって馴れ合うのではなく、あくまで日本代表チームの監督とゴールキーパーコーチとしてのプロフェッショナルな距離感を意識していました。まあ、こちらがそんなことを意識しなくても、コーチに対する岡田さんの向き合い方はものすごく厳しかったですけれど(笑)。

オシムさん、それから岡田さんと日本代表チームでご一緒させていただいたあの4年間は、私にとってとてつもなく貴重な時間でした。

1994年と1998年のワールドカップはテレビ中継の解説者として現地で仕事をさせてもらい、その後は日本サッカー協会の一員として世界トップレベルのサッカーを分析する立場も務めました。その経験があったからこそ、2010年の南アフリカ大会に出場した日本代表チームメンバーの一人として経験できたことは大きかった。あらゆる角度から世界最高峰の大会を見たことで、「これを伝えなければいけない」という責任感も増しました。

思えば、私のサッカー人生のすべては古河電工サッカー部に入ったことから始まりました。

アマチュア選手として一般企業で働きながらサッカーを続けること。試合に出られない状況でも自分と向き合い続けること。選手としての結果がその努力の先にあると知ること。そして、プロ選手として社業を離れる決断を下し、指導者としてさまざまな環境に身を置けたこと。それらすべての経験が古河電工という会社から始まったことを改めて強く実感しています。

アイスホッケー部のゴールキーパーとの“ゴールキーパー談義”のこともはっきりと覚えているし、時々開催されるサッカー部OBの先輩方による講演のことも忘れられません。銅メダルを獲得した1968年メキシコオリンピックの日本代表メンバーである八重樫茂生さんは、キャプテンでありながら東京オリンピックの試合に出られなかったんですよね。その時に何を考え、どのような行動を取ったのかというお話を、興奮しながら聞いたことを覚えています。

今になって振り返ると、古河電工という会社には“想いをつなぐ”という文化や社風が昔からあるのではないかと思います。

少なくとも私はそれを感じていましたし、だからこそ「最高の環境だった」と振り返ることができる。本当に尊敬できるすごい人ばかりでしたから、自然とその言葉に耳を傾けようとしたし、それを後輩たちに伝えなければと考えていました。そうした思いを持っていたのは、私だけではなかったと思うのです。

これからの私にとっての夢や目標はこれまでと変わりません。
先輩たちの思いを受け継ぎながら、今の自分の使命である“指導者を育てる”という仕事に全力を注ぎたいと思っています。