日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA ピッチの外から、変化を見つめて。
おぐら・じゅんじ。1938年生まれ。東京都出身。早稲田大卒業後、1962年に古河電工に入社。1972年からサッカー部のマネージャーを務め、1981年から5年間はロンドン駐在員事務所長に就任。帰国後、経営企画室部長を務めながらサッカー部長としても活動した。1988年からは日本サッカーリーグ(JSL)第2次活性化委員会の委員長としてプロ化を推し進め、Jリーグ発足に大きく貢献。1994年からは2002年ワールドカップ日本招致委員会の事務局長として大会の招致に尽力し、大会時にはトーナメントダイレクターを務め、大会を成功に導いた。1994年にアジアサッカー連盟(AFC)の理事に就任し、2002年には日本人で3人目となるFIFA理事に就任。2010年にJFA会長に就任し、2012年より日本フットサル連盟会長も務めた。
2013年日本サッカー殿堂入り、旭日中綬章受章。
サポーターからマネージャーへ
これからの日本はメーカーが支える——そう考えて古河電工に入社したのは1962年のことでした。
編集者だった父の影響で映画少年だった私は英語学習に力を入れ、日曜日になると教会に通って外国人に話しかけるという少し変わった学生だったんです。スポーツとはまったくと言っていいほど縁のない学生時代でした。
入社後、最初に配属されたのは経理部です。私はヨコデン(横浜電線製造所、現在の横浜事業所)の会計を担当していました。経理の仕事は、新入社員は現場の原価計算からスタートするのが普通だったんですよ。でも、私の場合はなぜか新人の頃から全社決算の仕事もやらされていて……どうしてそうなったのかはわかりません(笑)。
サッカー部の活動に興味を持つきっかけは寮生活にありました。
当時、新入社員は独身寮に入ることが当たり前でした。私が入寮した東急東横線・妙蓮寺駅近くの神奈川寮には川淵三郎さんや宮本征勝さん、鎌田光夫さんといったサッカー部の先輩が大勢いて、彼らは寮の裏手にあった小学校の校庭でよくボールを蹴っていたんです。私はそこで何の気なしに球拾いを手伝うようになり、そのうちにサッカー部員との仲が深まっていったというわけです。
妙蓮寺駅の神奈川寮のほかに、同じく横浜の三ツ沢球技場の隣には既婚者が家族で入る宮ヶ谷社宅がありました。そこに独身寮もできたことで、それまで神奈川寮にいた独身サッカー部員も入寮することになり、必然的に、この宮ヶ谷寮・社宅内で「サッカー部を応援しよう」という機運が高まっていったんです。当時の古河電工ではアイスホッケーとサッカーが“社技”とされていたのですが、アイスホッケー部は日光事業所が盛り上げているから、横浜はサッカー部を盛り上げようと。
そうしてサッカー部の応援団、つまりサポーターのような活動が始まりました。
寮にあった大きな畳の部屋に大勢の社員が集まって、どうやって応援するかを真剣に話し合うんですよ。週末はサッカー部を追いかけて全国のあちこちに足を運びました。楽しかったですね。
当初は、ただの“追っかけ”としてサポーター活動をしていたんです。でも、ある日、川淵さんから「そんなに好きなら運営を手伝ってくれよ」と言われてね。言われるままにサッカー部のマネージャーとなり、それを機に、私の人生はサッカー一色に染まっていきました。
マネージャーから運営委員へ
サッカー部のマネージャーといっても、初めはほんの“お手伝い”に過ぎませんでした。
平日は社業に専念し、私は週末の活動をサポートするだけ。先輩マネージャーの西本八寿雄さんの見よう見まねで、主に週末の練習および試合のグラウンドを確保するのが私の仕事でした。それから、本業なので得意分野の、部の活動予算策定や決算も担当していましたね。会社から福利厚生費の一環として支給される、毎月の部の活動費や遠征費を帳簿につけて管理していました。
当時の広報部門には、サッカー部の生みの親であり、日本リーグ発足の中心人物のひとりである西村章一さんが課長として、さらに1968年のメキシコ五輪では監督として、日本代表チームを銅メダル獲得に導いた長沼健さんが課長補佐として在籍されていました。
練習や試合の日程を決めるのは長沼さんでした。それを私が引き取って関係者に連絡するなど、事務作業の多くを引き受けていたこともあり、長沼さんとは常に密なコミュニケーションを取っていました。経理部に所属していた私は予算関係に明るいし、あの当時、取引先には専用グラウンドを持っている銀行がいくつもあったんですよ。私をサッカー部に引き入れた川淵さんの頭にはどうやらそういう算段もあったようです。
私はもともとサポーターだったわけですから、サッカー部にマネージャーとして携われることは楽しかったです。その引き換えに休日はほとんど潰れてしまうことになるのですが、それを苦に感じることはまったくありませんでした。
そんな意気込みで向き合っていたからか、マネージャーとしての仕事の幅が自分の想像を超えてどんどん大きく広がっていきました。やがては長沼さんに誘われるままに日本サッカーリーグの運営に携わるようになり、常任運営委員という立場を任されるようにもなりました。サッカー界にまったくお金がない時代だったので苦労も多かったのですが、その頃の経験がのちの仕事に生きたことは間違いありません。
そうして迎えた1981年のある日、当時の経理部長であり、のちに社長になられた舟橋正夫さんに呼び出されました。
「ブラジル、ニューヨーク、ロンドンの中から行きたい場所を選んでくれ」
転勤の話でした。私が迷うことなくロンドン行きを選択したのは、もちろん、“サッカーの母国”イングランドでサッカーを体感できることへの期待感からです。
その後6年間に及んだロンドン駐在は、私自身の人生を左右する大きな経験となりました。
人生を変えたロンドン駐在
古河電工ロンドン駐在員事務所には、1981年10月から1987年3月までの約6年間勤務しました。
赴任に際して、長沼さんからは、ロンドン駐在員事務所長の名刺とは別に「日本サッカー協会国際委員(在ロンドン)」と書かれた名刺を大量に手渡されました。この名刺がものすごく大きな力を発揮してくれることになりました。
当時、ロンドン日本人会に加盟していた企業は約700社ありましたが、「日本サッカー協会」と記載された名刺を持っていたのはもちろん私ひとりしかいません。古河電工の名刺と一緒にこの名刺を手渡すと効果は絶大で、相手との会話は驚くほどに弾みました。
当時の日本では信じられなかったことですが、ビジネス界においてもイギリスでは必ずと言っていいほど“マイチーム”があるのです。だから私は、その日会う人が決まっていれば必ずその人の“マイチーム”の情報を仕入れるようにしていましたし、通勤電車では経済紙ではなくスポーツ紙を握りしめ、当時の私の“マイチーム”、トッテナム・ホットスパーのシーズンチケットを購入して日常的に本場のサッカーを体感していました。
古河電工サッカー部には3つの黄金期があります。1つめは天皇杯で3度も優勝した1950年代終盤から1960年代前半、2つめは史上初の日本サッカーリーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成した1976年、そして3つめは2度目の日本サッカーリーグ優勝からアジアクラブ選手権優勝へとつながる1986、87年の時期です。
会社として初めてサッカー部員の“海外留学”を実現させたのは“第2次黄金期”にあたる1976年のことでした。行き先はブラジル。きっかけは古河電工のブラジル進出によって受け皿ができたことで、そのパイオニアとして2カ月間のパルメイラス留学を経験したのが奥寺康彦でした。
それと同様に、私がロンドン駐在になったことを契機として、選手のイングランド留学という話が浮上しました。選手の受け入れ先を探すにあたり、私はミドルセックスワンダラーズの副会長であるレズリー・テーラーさんに相談しました。彼は、1960年代、1970年代に何度か来日し、日本サッカーのヨーロッパ窓口として何度も手助けしてくれていました。彼が紹介してくれたのが、名門ウェストハムのジョン・ライル監督でした。
イングランドのサッカー界では誰もが知る名将であるにもかかわらず、彼は快く私の提案を受け入れてくれました。7月と8月に行われるシーズン開幕前のキャンプに古河電工サッカー部の選手2名を帯同させてもらえることになったのです。
最初に実現したのが1983年。そこから毎年、選手が2名ずつ海を渡って貴重な経験を積ませてもらうことができました。岡田武史や加藤好男、江尻篤彦、渋谷洋樹、越後和男、菅野将晃などがその例です。彼らがその後の日本サッカー界で選手として、あるいは指導者として活躍していることを考えると、本当に大きな出来事だったのではないかと思います。そのきっかけ作りにあの”名刺”が役立ったことを考えると、長沼健さんのビジネスセンスは本当に素晴らしいと思いますね(笑)。
もちろん、私自身にとっても得難い経験の連続でした。
ジョン・ライル監督はもとより、ウェストハムの役員やスタッフとも親しくなり、完全に“身内”として扱っていただけたことに感謝しかありません。スタジアムのどこにでも入れる待遇をしていただきましたし、時には選手との契約交渉の場に立ち会わせていただくこともありました。それらのすべてが、こののちに携わることになるJリーグの立ち上げに大いに役立ったことは言うまでもありません。
ロンドンから持ち帰ったもの
ロンドン在任中、1986年12月末にはサウジアラビアのリヤドで第6回アジアクラブ選手権の決勝大会がありました。古河電工は同時期に行われる天皇杯への出場を辞退し、“アジアナンバーワン”の称号を争う同大会に参加することを決断しました。
私はロンドンから応援に駆けつけました。
第1戦は優勝候補のアル・ヒラル(サウジアラビア)に4-3で勝利。続いて第2戦はアル・タバラ(イラク)に2-0、第3戦は遼寧省(中国)に1-0と3連勝を飾り、日本のサッカークラブとして史上初めて、アジアナンバーワンの栄冠に輝きました。
当時、サウジアラビアサッカー協会の会長を務めていたのはサウジアラビア皇太子だったんですよ。日本の古河電工ごときに負けるはずがないとエジプト外遊されていたそうで、帰りの飛行機で聞いた「負けた」というニュースが信じられずに2度も聞き返したという話です。さきほどお話ししたとおり、のちに振り返ればこの時期こそが古河電工サッカー部にとっての第3次黄金期でした。
清雲栄純監督の下で素晴らしい結果を成し遂げたチームを誇らしく思いながら、私はロンドンへ戻りました。経由地であるパリまでのサウジアラビア航空には宗教上の理由から厳格な禁酒ルールがあるので、パリからロンドンへのフライトを待つ間に飲んだお酒が本当に美味しかった……嬉しさと感慨深さが相まって、あの味は忘れられません。
海外留学が、それを経験した部員一人ひとりにとって、あるいは古河電工サッカー部にとって、さらに言えば日本サッカー界にとって非常に大きな効果をもたらしたことは間違いないと私は思います。
1976年にブラジル留学を経験した奥寺康彦は、翌1977年に西ドイツへと渡り、1986年に帰国するまで1FCケルン、ヘルタ・ベルリン、ヴェルダー・ブレーメンの3チームで「東洋のコンピューター」と称され大活躍しました。ほぼ同時期にロンドン駐在となった私は、ロンドンからブレーメンに足を運び、スタジアムや街中で「オク!」と声をかけてくれる人々に接し、奥寺が異国の地で愛されていることを実感して感激しました。その彼が、日本に帰国後すぐにアジアクラブ選手権を戦い、古河電工サッカー部史に残る栄冠をもたらしたことを考えると、彼を西ドイツに送り出した際の古河電工の手厚いサポートにはやはり大きな価値があったと言わざるを得ません。
もちろん私自身にとっても6年間に及ぶロンドン駐在は特別な時間でした。
ウェストハムのおかげでイングランドのクラブの実態を把握することができましたし、有形の財産として実際に持ち帰ったものもあります。
それは、イングランドサッカー協会からいただいたサッカー協会とイングリッシュ・フットボール・リーグ(現プレミアリーグ)の規約集です。当時はまだ、日本にプロリーグができるなど考えたこともなかったので、プロリーグ設立に備えて持って帰ってきたわけではありませんでした。
ところが、後年、Jリーグ設立に際してこれが大いに役立つことになるのです。サッカーとは、つくづくわからないものです。
情に厚い古河電工だったからこそ
ロンドンからの帰国後、古河電工本社に戻った私は、経営企画室長を務めながらサッカー部部長としても活動することになりました。
次第に日本サッカーのプロ化に関する議論が白熱し、1988年には日本サッカーリーグ第2次活性化委員会の委員長としてJリーグの発足を目指すことになりました。また、1990年には日本サッカー協会の特任理事の命を拝して“国際関係の調整役”となり、Jリーグの開幕を翌年に控えた1992年からは専務理事として47都道府県サッカー協会の法人化に向けた整備など、事務局体制の基盤作りに力を注ぎました。
実は、この専務理事就任の際に、それまで在籍扱いにしてくれていた古河電工を辞めようと考えていました。それでも古河電工という会社は本当に情に厚い会社で、簡単には辞めさせてくれなかったのです。上司からはこんなことを言われました。
「川淵(三郎)はサッカー選手として入社したんだからサッカー界に戻してもいい。でも、お前はそうじゃない。サッカー部に携わる時も『両方やる』と言ったじゃないか」
川淵さんと一緒に退社し、日本プロサッカーリーグ(のちのJリーグ)に転職してプロリーグの立ち上げに全精力を注ぐつもりだったのですが、そう簡単に事は進みませんでした。しかしそんな時にひと肌脱いでくださったのが長沼健さんで、「小倉を日本サッカー協会で使いたい」と申し出てくれたのです。Jリーグへの転職を考えていた私にとっては不本意なところもありましたが、もちろん長沼さんには逆らえません(笑)。そうして私は日本サッカー協会に転職することになったのですが……古河電工との関係がそのタイミングで終わったわけではありません。
会社はこう申し出てくれました。当時の日本サッカー界の状況もあり「日本サッカー協会の給料は古河電工よりも少ない。その差額は古河電工が埋める」と。日本サッカー協会に移ってからの3年間はその措置が取られ、その後も結局、古河電工に籍を残していただくことになりました。今の時代ではあり得ないことですが、「会社の融資制度を使って組んだ住宅ローンを返済し終えるまで籍を残しておく」という当時の会社からの提案は、私にとって本当にありがたい話でした。
思えば、奥寺の西ドイツ留学に対する手厚いサポートも、私自身への対応も、サッカーをはじめスポーツに対する当時の古河電工の姿勢を示す象徴的な事例と言えるかもしれません。もっとも、そうした形でのスポーツ支援を行っていたのは古河電工だけではありません。「御三家」と言われた三菱も日立もその姿勢は同じ。「ヒトも金も出す」という一貫した考え方で、日本サッカー界の進歩を力強く後押ししました。
私にとって古河電工は、サッカーに対する特別なモチベーションを持って門を叩いた会社ではありませんでした。
しかし、いくつもの偶然が重なって日本サッカー史における大変革の時期に身を委ねることになり、本当に多くの経験をさせていただいたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
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