日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA 偉大なるパイオニア。
ながぬま・けん 1930年生まれ、広島県出身。
1955年入社。選手としてはオリンピックに2度出場。32歳の若さで日本代表監督に就任し、1968年メキシコオリンピックでは銅メダル獲得に導いた。
1994年に日本サッカー協会会長に就任。さまざまな立場で日本サッカーの躍進を牽引した。2008年6月2日没
サッカーの街に生まれて
長沼 健は、本物の「漢(おとこ)」だった。
その背中を敬慕する岡田武史は、日本サッカー史に名を刻む偉人をそう回顧する。
「健さんは常に表に立つような人じゃない。でも、誰かが困った時には必ず矢面に立ってすべての責任を負う。あの人は漢です。僕は子どもの頃からずっと漢になりたいと思っていたから、健さんに出会ってからずっと『この人みたいになりたい』と思ってきた」
長沼が生まれた1930年は、史上初のワールドカップがウルグアイで開催された年でもあった。
地球の反対側にある広島でも、当時からすでにサッカーは盛んだった。普及に貢献したのは明治時代からサッカーに力を入れていた広島高等師範学校だ。その付属中学(5年制の旧制中学)に入学した長沼も当然のようにサッカーを始め、第2次大戦下の勤労動員、疎開中の被爆、戦争終結後の混乱を経験してもなお、その情熱を失うことなくボールを蹴り続けたという。
新制の付属高校時代には「超高校級FW」と評されて国体優勝に貢献し、進学した関西学院大、さらに編入先の中央大でもストライカーとして活躍して日本代表に名を連ねるようになった。1954年には日本が初めて挑んだワールドカップ予選に出場し、韓国との史上初の国際Aマッチで“日韓戦初ゴール”を記録している。
その直後の1955年4月、長沼は古河電工に入社した。
電気機材の問屋だった広島の実家は古河電工との付き合いがあり、当時の古河電工社長、小泉幸久が「アイスホッケーとサッカーを社技にする」という方針を打ち出したことから誘いの声がかかった。
社技としての強化方針を打ち出し、その第1期生として長沼を迎えて以降、古河電工は積極的な姿勢で日本代表クラスの大学生をサッカー部に迎えた。1957年に内野正雄、1958年に平木隆三と八重樫茂生、1960年に鎌田光夫と保坂 司が加わり、同年には実業団チームとして初めて天皇杯を制した。
さらに翌1961年には天皇杯、全日本実業団サッカー選手権大会、都市対抗の3冠を達成するのだが、この年に入社したのが川淵三郎だった。
長沼の印象について、川淵が振り返る。
「初めて会った時は驚いた。もちろん名前は知っていたけれど、とにかくものすごく穏やかな人でね。有名な選手だったからもうちょっと居丈高な感じでも不思議じゃなかったけれど、健さんにはそういう雰囲気がまったくないんだ。その第一印象はものすごく強烈に残っている」
1960年は日本サッカー史における大きな分岐点でもあった。
日本蹴球協会に招かれ、西ドイツから1人のコーチが来日した。1964年の東京五輪に向けて特別コーチに就任した、当時35歳のデッドマール・クラマーである。
現役選手であり、日本蹴球協会の技術委員でもあった長沼は、クラマーの近くで多くを学んだ。1962年にはクラマーの推薦を受ける形で現役選手のまま32歳で日本代表監督に就任。1学年下でコーチとなった岡野俊一郎との二人三脚でクラマーの教えを実践した。
中心選手の1人として東京五輪に出場し、大金星を挙げたアルゼンチン戦で値千金の同点ゴールを決めた川淵が振り返る。
「長沼さんと岡野さんは名コンビだった。現場を仕切るのは岡野さん。長沼さんは一歩下がったところから全体を見ている。岡野さんはちょっと出しゃばりなところがあって面白い人だったけど、だからこそバランスが良かったんだよね。長沼さんはほとんど何も言わない。でも、だからといって存在感がないわけじゃない。人間性が素晴らしいから、みんなからリスペクトされていました」
ピッチの外でも、長沼は静かに改革を推し進めた。
クラマーの提案による日本サッカーリーグの立ち上げに尽力し、社内調整に一役買って古河電工サッカー部のリーグ参戦を実現した。一方で、当時はまだ無報酬だったにもかかわらず日本代表監督を続け、1966年には欧州遠征を実施してワールドカップ・イングランド大会を視察し、日の丸を背負う選手たちに特別な刺激を与えた。そうして高まった機運は、1968年メキシコ五輪での銅メダル獲得という偉業達成に結実した。
冬の時代の葛藤と模索
奥寺康彦が初めて長沼と出会ったのは1970年のことだ。高校3年の全国高校サッカー選手権大会が終わり、ユース代表として臨んだハンガリー遠征から戻ると、ベンフィカ(ポルトガル)との国際親善試合で日本代表に引き上げられた。その時に初めて接した“長沼監督”の記憶はうっすらとしか残っていないが、直後に古河電工への入社が決まり、東京・丸の内の本社で会った“広報の長沼さん”のことは印象に残っている。
「入社することが決まって挨拶に行ったら『頑張れよ』とひとこと言ってもらえたんです。もの静かな人だったからその後もたくさん会話したわけじゃないけれど、だからこそ、あのひとことが強く印象に残っているのかもしれませんね」
奥寺は1977年に西ドイツに渡り、その後10年間、世界最高峰のブンデスリーガでプレーした。1986年に帰国して古河電工サッカー部に戻ると、日産自動車サッカー部の木村和司とともに国内初のプロ選手としてスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び、大きな話題となった。もちろんその背景にも長沼のバックアップがあったことは想像に難くない。
「帰国することになって、僕自身は10年間ずっとプロとしてやってきたから『日本でもプロで』という意向を日本サッカー協会に伝えていました。おそらく、日本サッカー協会と古河電工との間でいろいろな話し合いがあったはずです。きっと健さんも手を尽くしてくれたんだろうなと、今になって思いますね」
1973年に入社し、1974年からは日本代表の一員としても長沼と接してきた清雲栄純の記憶も奥寺に近い。
「不思議な魅力のある人でした。すごくもの静かだけど存在感があって、多くを語るわけじゃないけど説得力がある。イングランドと西ドイツへの短期留学から帰った私に『お前が学んできたものを証明しろ』と声をかけてみたり、バイエルン・ミュンヘンとの試合前に『ゲルト・ミュラーを抑えることだけに集中しろ』と肩をたたかれたり。相手の心を掴むのがうまかったと思います」
もっとも、のちに長沼自身が「冬の時代」と振り返っている1970・80年代は苦労の連続だった。
日本代表はオリンピック、ワールドカップともアジア予選を突破することができず、長沼は1976年に11年間続けた代表監督を退任した。その後は裏方として日本サッカー協会の中核を担ったものの、日本サッカーリーグのスタジアムは閑古鳥が鳴き、スター不在の日本代表は人気を集められなかった。
読売新聞に連載されていた回顧録『時代の証言者』で、長沼はこの時代をこう振り返っている。
「原因のひとつは、釜本(邦茂)、杉山(隆一)に続くスターが育たなかったこと。歯がゆいことに、その理由もかなりはっきりしていました。強化費が足りなかったのです。次世代を担うB代表を海外に遠征させるのが難しく、ヨーロッパへはA代表だけ。B代表はせいぜいアジアに、というのが限界でした。若い選手に経験を積ませたいなあ、と思いつつも残念でした」
葛藤の中で打開策を模索し、まずは日本サッカー協会の組織を近代化するためチーム登録から個人登録制へと改め、個人から会費を徴収した。サッカーの裾野を広げ、新たな才能を発掘するべく、1977年から全日本少年サッカー大会をスタートさせた。全国高校サッカー選手権大会はそれまで関西で開催されていたが、同じく1977年からは国立競技場を中心とする首都圏開催へと移行した。
また、やはり1977年にはサッカーのビジネス化、選手のプロ化における大きな動きもあった。
9月に国立競技場で開催された“サッカーの神様”ペレの引退試合は当時においては異例中の異例と言える6万5000人の観客を集め、それまで自転車操業だった日本サッカー協会に大きな利益をもたらした。奥寺が西ドイツの1.FCケルンとプロ契約を結んだのもこの年のことだ。長沼はサッカー界の中心で再構築に奔走した。
清雲が言う。
「確かに冬の時代でしたよね。日本代表監督を退任してからの長沼さんは“サッカー協会の中心にいる人”という感じで、やはり表に立つわけじゃないけれど、問題があるところに顔を出して、困っている人をサポートするという立場を貫いていたように思います。80年代後半はJリーグ発足に向けて大きく動く時期だったから、長沼さんのそういう姿勢はものすごく重要だったんじゃないかな」
ジョホールバルの舞台裏で
1980年代後半に入ると、川淵もまた特別なエネルギーを持って日本サッカー再構築の波に乗った。日本サッカーリーグのプロ化、すなわちJリーグの発足に向けてはさまざまな障壁があったが、だからこそ日本サッカー協会の先頭に立つ長沼との協働には大きな意味があった。
川淵が振り返る。
「動き始めたばかりの頃は日本サッカー協会の中でも『時期尚早』という見方が強く、むしろほとんど無関心という状態だった。でも、副会長の長沼さんと専務理事の村田忠男さんだけは『若いやつらの思いを汲んでサポートしてやろう』というスタンスだったんだよね。一度、長沼さんと岡野(俊一郎)さんを前にしてプロリーグを立ち上げる意義を熱弁したことがあるんですよ。最後に岡野さんに言われた『サブがやるならしょうがねえや』というひとことは強く印象に残っていますね。長沼さんは静かに聞いていただけだけど、自分のことをちゃんと認めてくれているんだと伝わってきた」
そして1993年にJリーグが開幕し、長沼は1994年から日本サッカー協会会長として、川淵はJリーグの初代チェアマンとして激動の1990年代の先頭をひた走った。
この頃の長沼が力を入れたのは2002年のワールドカップ招致だ。そのためには「1994年のアメリカ大会に出場する、1998年のフランス大会で何勝かする」(読売新聞『時代の証言者』より)と意気込んだが、道のりはそう簡単ではなかった。1996年、舞台裏の激しい攻防の中で何とか2002年大会の「日韓共催」にこぎつけたものの、翌1997年、「ワールドカップに出場したことがない国での開催は前例がない」というプレッシャーの中で行われたフランスワールドカップアジア最終予選は窮地に追い込まれていた。
1997年10月4日、敵地でのカザフスタン戦が1-1の引き分けに終わった夜、アルマトイのホテルで加茂周監督の更迭と、後任として岡田武史コーチの監督起用が決定した。
岡田が振り返る。
「部屋に呼ばれて行くと、そこには長沼さん、川淵さん、大仁邦弥さん(当時の日本サッカー協会強化委員長)の3人がいて『引き受けてほしい』と。自分は加茂さんに呼ばれてコーチを引き受けた身だから『何を言っているんですか』と一度は反論したけれど、そのあと加茂さんに呼ばれて『ワシはアウトや。岡ちゃん、あとは頼む』と言われてね。当時は解任なんてなかった時代だったし、健さんにとって加茂さんは関西学院大の後輩でもあったから苦しかったと思いますよ。
のちに長沼は、この時のことをこう振り返っている。
「岡田は沈痛な顔をしながら『次のウズベキスタン戦で負けたら続投します。勝って日本へ帰ったら新しい監督を選んでください』と言うのです。敗れたら責を負い、可能性を残したら自分じゃない新規構想で監督を選べという、あいつらしい条件を出してきました。それは呑めない、とにかく勝とうが負けようがお前さんに託したいと説得しました」
岡田が言葉を続ける。
「あの人は本当に、ここぞという時はものすごく厳しい目をする。俺を監督にすると決めて、選手たちの前で話した時は有無を言わせないくらいのすごい迫力だった。人間力がすごいんですよ。日頃は穏やかで、絶対に人を立てる。人を悪く言わない。その上で、自分が悪役にならなければいけないと察したら自ら進んで引き受ける。健さんの魅力は、その人間力にあるとしか言いようがないよ」
世界に通用する稀有な人柄
2002年、長年の悲願であり、途方もない苦労と困難を乗り越えて実現したワールドカップ日韓大会を成功させると、同年、長沼は日本サッカー協会名誉会長の座を退いた。
川淵が言う。
「ワールドカップの招致活動で誰が一番働いたかと言えば、文句なしに長沼さんだった。全世界を飛び回って招致を実現した姿を見て、『やっぱりこの人の人柄や人間性は世界でも認められるんだ』と思いましたね。英語が堪能なわけではないけれど、人柄ってのは態度で伝わるんです。長沼さんのことを悪く言う人は日本にも世界にもいない。そういう不思議な魅力を持った人なんですよ」
2006年、2人は互いの立場に基づく見解の違いから電話口ですれ違い、それが最後の会話となったという。
当時を思い出しながら、川淵がにこやかに言葉を続ける。
「あの時も長沼さんは冷静だった。でも自分はそうじゃないし、そうやって生きてきたわけだから『あの時こうすれば良かった』なんて思わない。意見が合わなくてすれ違ってしまったけれど、だからと言って長沼さんに対する尊敬の念や感謝、人としての思いが消えることなんてあり得ないよね。それくらい自分にとって大きな人であることは間違いないから」
さらに続いた言葉は、川淵だからこそ言える印象的なものだった。
「一緒に時代を築いてきたという感覚はまるでないんです。むしろ恐れ多い。長沼さんと自分が過ごした時代は、同じようで違うんですよ。“戦友”なんて言えるはずもなく、自分にとって長沼さんはとてつもなく偉大な先輩、心から尊敬すべき先輩であり、日本サッカーの先駆者と言える人だよね。ただ、一緒に試合をした仲ではあるよ。1961年の全日本実業団サッカー選手権大会決勝、あの試合は長沼さんがトゥキックで決勝ゴールを決めるんだよ。あの時代はトゥキックを蹴る人なんてほとんどいなかったから、1年目の僕は『トゥキックってあんな時に使うんだ』と驚いたんだ」
長沼が永眠した2008年6月2日、病に倒れたイビチャ・オシムの後任として前年から再び日本代表の指揮を執っていた岡田武史は、南アフリカワールドカップアジア3次予選vsオマーンのベンチにいた。
「本当にショックでしたね。日本代表の活躍を見届けてもらいたかった。それが叶わなかったことは残念でした。ただ、僕は今でも健さんのすべてを見習っていますよ。人を動かすのは人間力。それは信頼。健さんは間違いなく“あの人についていこう”と思える人だったし、目指すところを示してくださったという意味で心から尊敬している」
ワールドカップの歴史の始まりの年に広島で生まれた長沼は、舞台の表と裏で日本サッカー激動の時代を自ら先導し、力強く導いてきた。その功績は計り知れないと最後に岡田が言う。
「歴史の変節には必ず健さんがいる。ということは、もしも健さんがいなかったら日本サッカーがまったく別に進んでいた可能性があるということ。それくらい、ものすごく大きな存在だったと思います」
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