日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA 唯一無二の、熱血漢。

木之本 興三

きのもと・こうぞう。1949年生まれ。千葉県出身。
1972年入社。1975年に大病を患い、現役引退後は日本サッカーリーグの事務局長、総務主事としてプロ化に尽力し、Jリーグ発足後は常務理事、専務理事など要職を歴任した。日韓共催の2002年ワールドカップでは日本協会常務理事として日本選手団団長を務めた。2017年1月15日没。

教育大出身の「先生」

木之本興三は、「先生」であり、「親分」であり、「闘う男」だった。

生まれは千葉県千葉市だ。県内屈指の強豪だった千葉高時代は習志野高と全国大会出場を争い、東京教育大(現・筑波大)ではキャプテンとして1971年の全日本大学選手権優勝に貢献した。

翌1972年、鳴り物入りで古河電工へ入社し、サッカー部の門を叩いた。

1年早く浦和南高から古河電工の一員となり、期待のルーキーとして活躍していた永井良和が当時を振り返る。

「ある日、サッカー部のマネージャーだった小倉純二さんに誘われたんですよ。『今度うちに来る木之本という選手がいるから一緒に観に行こう』と。それが全日本大学選手権の決勝でした。先制点を取ってチームを優勝に導いた木之本さんの姿を見て、古河にすごい選手が入ってくるなと思いましたね」

木之本は永井と同じく東京・目白寮に入寮した。配属は丸の内にあった本社の広報部だった。中央研究所の永井とは毎日の行き先こそ違ったものの、土曜と日曜は練習や試合の帰りに必ずと言っていいほど“寄り道”をともにし、やがて兄貴分と弟分の間柄になった。

永井が言う。

「年齢では私が4つ下です。現役時代の木之本さんはとにかく負けず嫌いで、本当はそれほど体力があるわけじゃないのに汗かき役のMFでした。パスを配って攻撃を組み立てることもできたけれど、特に足の裏でボールを引く技術を得意としましたね。当時はまだ、そういう技術を持った選手があまりいなかったんですよ」

清雲栄純は翌1973年に入部した。木之本とともにピッチに立つ時間は多くなかったが、プレーヤーとしての印象は強く残っている。

「永井が言うようにとにかく頑張り屋でした。シャトルランをやるといつも私の背中のほうから『はあ、はあ』と荒い息づかいが聞こえてくるんですよ。私は走るのが得意だったからいつも先頭にいたけど、ものすごい存在感で食らいついてくるのが木之本さんでした」

木之本はチームメートの大半から「先生」と呼ばれていた。その理由を清雲が説明する。

「初めは驚きましたよ。どこに先生がいるんだとね(笑)。教育大出身であり、生粋の兄貴肌であり、サッカーに対してはかなりの理論派でしたから、すぐにその愛称の意味を理解しました」

当時の古河電工サッカー部は、緩やかだが着実な右肩上がりの時期にあった。

川淵三郎が監督となった1973年には清雲の他に須佐耕一や淀川隆博、1974年には鬼塚忠久、1975年には川本 治と次々に即戦力を補強し、着実に戦力を整えていった。永井は、次第に激化していったポジション争いに敗れてなかなか試合に出られなかった木之本とこんな会話をしたことを覚えている。

「木之本さんが試合のメンバーに入るのは、なぜかいつもアウェイの試合ばかりだったんですよ。よく2人でその話をしました。『どうして川淵さんはホームの試合で使ってくれないのかね』とね。でも、木之本さんはマイペースでしたね。とにかく自信家で親分肌だから先輩たちに対してもまったく物怖じしないし、そういう姿勢は試合に出ようが出まいが変わらない。僕は隣にいて話を聞きながら『この人、先輩に対してとんでもない口の利き方をするな』といつも思っていました」

舞台裏の主役として

しかし1975年、木之本は何の前触れもなく練習中のピッチに倒れた。26歳だった。

永井も清雲も、その日は日本代表の活動でチームを離れていたから現場には居合わせなかった。一報を受けて驚き、病名を聞いてさらに驚いた。

永井が言う。

「一度聞いただけじゃ覚えられないほど難しい病名で驚いたし、日本で13人目の症例と聞いて信じられなかった。本人から『サッカーなんてやっている場合じゃない』という話を聞かされたことを覚えています」

病名は「グッドパスチャー症候群」。木之本は腎臓の全摘出手術を受けて週3度の人工透析を欠かせない身体となり、「余命5年」と宣告された。もちろん、サッカー選手としてのキャリアにピリオドを打つしかなかった。

清雲が言う。

「木之本さんは仕事もすごくできる人だったんですよ。のちに私が仲良くなった、とあるケーブルテレビ会社の社長さんは、当時、古河電工の新規事業として立ち上がったばかりのCATV営業部にいた木之本さんのことを高く評価していました。きっと、あの性格だから、どんどん相手の懐に入っていったんでしょうね」

本人はまったくそんな素振りを見せなかったが、清雲は少し心配していたという。

「少し前の時期からサッカー部の練習日数が増えていたんですよね。それまで週3・4日程度の活動だったけれど、最低でも週5回は活動するようになった。木之本さんは仕事に対してまったく手を抜かない人だったから、練習後によく会社に戻って仕事をしていました。私には、かなり無理をしているように見えることもありましたね。そういう意味では、倒れてしまった時、当時の監督だった川淵さんはものすごく大きな責任を感じていたように見えた気がします」

病院に駆けつけた川淵は、木之本の顔を見るなり「お前の面倒は俺が一生見る」と伝えたという。

 

しかし、木之本は自らの力で立ち上がった。

人工透析を続けながら1980年に復職し、運営委員としてサッカー部にも復帰した。

その後、1983年に古河電工を退社すると、未来のプロリーグ発足を見据えて創設された「日本サッカーリーグ第1次活性化委員会」の事務局長に就任。三菱重工出身で総務主事の森 健兒をリーダーとし、1988年10月からは川淵が総務主事となったこの組織は、1993のJリーグ発足まで舞台裏で中核を担った。もちろん木之本も、主役の一人だった。

現在も「人事部人材開発オフィサー」としてJリーグに籍を置く加賀山 公が木之本と出会ったのはこの頃のことだ。

「子どもの頃からサッカーが好きで、“教育大の木之本選手”のことは小学生の頃から知っていました。実際に試合を観に行ったこともあるんですよ。大学を卒業して広告会社に入ったのですが、サッカーの仕事をしたいと退社し、いろいろと模索していました。そんな時に、以前からの知り合いで、日本サッカーリーグのプロモーションを担当していた博報堂の岡本 純さんが手掛けるイベントを手伝うことになったのです」

そのイベントとは、1988年に開催された日本サッカーリーグ表彰式のことだ。会場となったザ・キャピトルホテル東急で準備を進めていると、「岡本、何やってんだ!」と大声で叱責しながら階段を下りてくる人物がいた。

木之本だった。

「それが最初の出会いでした。私は子どもの頃からサッカー雑誌を読み漁り、ほぼ全チームの選手プロフィールを暗記していたくらいのサッカー好きだったんです。しかし、お世話になっていた岡本さんが怒鳴られていることに驚いてしまったこともあって、目の前にいる人物と“あの木之本さん”を結びつけることはできませんでした(笑)」

加賀山は1990年から博報堂の契約社員となり、出向という形で、前年6月に日本サッカー協会に設置された「プロリーグ準備検討委員会」のメンバーとなった。

Jリーグ草創期に示した剛腕

それから長い時間をかけて、加賀山は剛腕ビジネスマンたる木之本の薫陶を受けた。

「それまでアマチュアだった世界を一気にプロ化させようとするのだから、業務は多岐に渡りました。Jリーグはイングランドを中心とするヨーロッパ各国の仕組みをモデルとしているのですが、例えば、Jリーグにまつわる権利の仕様や管理はJリーグがまとめて管理する一極集中型とした。そんな中で、クラブからの強い反発があった案件もありました。でも、木之本さんは日本サッカーにとって良いことと判断したら、そうした声をきっぱりとはね退けました。Jリーグの草創期においては最も難しく激しい交渉の舞台だったと思うのですが、木之本さんはそういう場所にあえて突っ込んでいくのです。火中の栗を自ら拾いに行く。今になって思えば、その熱量がものすごかった」

もちろん「剛」だけではなく「柔」の側面もあった。加賀山が続ける。

「ちょっと聞こえの悪い千葉弁がキャラクターの一部でしたよね。『おめえら』とか『なるい』とか。僕は『ぬるい』という意味で使われる『なるい』の意味が最初はよくわからなくて、よくわからないままいつも怒られていましたから。ただ、ああ見えて実はかなり手堅いところもありましてね。麻雀の打ち方もそうです。大胆に見せて、裏ではしっかりと保険をかけた打ち方をすると言われていました(笑)」

Jリーグは川淵が文字どおりの「キャプテン」として“表”に立ち、それまでのサッカー界になかったスピード感と力強さでぐいぐいと牽引し、新しい時代を切り開いていった。

表裏一体の“裏”には木之本がいた。川淵と同じスピード感で、目の前の大木を次々に切り倒して進もうとする特別なエネルギーは他の誰にも真似できなかった。

加賀山が笑う。

「木之本さん、こんなことも言っていましたよ。『おい、加賀山、わかるだろ? 川淵さんは俺が選手だった時の監督だぞ? 監督に逆らえるわけないだろ?』と」

 

一方、その頃、清雲と永井は完全プロ化にともなう『古河電工サッカー部』から『ジェフユナイテッド市原』への移行を舞台裏で支えていた。

結果的に共同オーナーとなる古河電工とJR東日本を結びつけるきっかけとなったのは、古河電工の営業マンとしてJR東日本を担当していた永井だった。

「正直な話、僕は、古河電工がJリーグに参入するのは難しいと思っていました。そんな時にJR東日本がサッカーチームを持ちたいと考えているという話を聞きましてね。ならば、と自分が担当するJR東日本の方にサッカーのプロ化についてお話ししたところ、興味を持たれて。そのことを私の上司で、サッカー部の部長だった福田浩平さんに伝えたところ『社長に話してみよう』となりました」

その流れで古河電工とJR東日本の話し合いが始まると、清雲もそのメンバーに加わって『ジェフユナイテッド市原』の誕生を支えた。現在のスポーツダイレクター職に相当する役割を担い、サラリーマン選手からプロ選手へ移行するチーム編成業務に没頭した。 

清雲が言う。

「もしも木之本さんが古河電工の人間としてサッカー界に携わっていたら、あの時の私たちが担っていた業務を1人で全部やってしまったかもしれないね。『日本サッカーのために』という気持ちも強いけれど、それ以上に『千葉のために』という想いを強く持っている人だったから」

変わらない「親分肌」で

木之本は1994年に日本サッカー協会常務理事に就任し、1998年からは日本プロサッカーリーグ専務理事を務める傍ら、Jリーグ関連会社の社長も兼任した。日本サッカー協会常務理事となった2000年からは日本代表チームの強化に携わり、フィリップ・トルシエ監督の相談役としても重要な役割を担った。

永井が笑いながら言う。

「まさに適役でしたね。トルシエさんみたいに気性が激しく、ちょっと難しい人をうまく扱わせたら木之本さんの右に出る人はいないんじゃないかな」

加賀山も頷く。

「これは当時の関係者から聞いた話なのですが、ある時、トルシエさんが木之本さんに半分冗談で弱音を吐いたことがあるらしいんです。『日本代表監督を辞めようと思う』と。それを聞いた木之本さんは『わかった。お前が辞めたいなら辞めろ』とあっさり言い返したそうで。その言葉を受けて豆鉄砲を食らったようなトルシエさんの表情がとても印象的だったそうです(笑)」

木之本は、日本選手団の団長としてチームを支えた2002年日韓ワールドカップの大会期間中にホテルで倒れ、閉塞性血栓性血管炎(バージャー病)と診断された。しかし再び難病を患う悲劇に見舞われ、両足切断を余儀なくされながらもサッカーへの情熱が消えることはなく、日本サッカー協会及びJリーグの要職から離れた後も精力的な活動をやめなかった。

永井は“パートナー”であり続けた。

プロ化したジェフユナイテッド市原で初代監督となった永井は、1993年限りで退任すると福島FC(現・福島ユナイテッドFC)、アルビレックス新潟、横浜FC、浦和レッズレディースの監督を歴任した。その仕事のほとんどに「木之本さんが絡んでいる」と笑う。

「木之本さんに誘われて銀座の寿司屋に行ったら福島FCの社長がいて知らぬ間に話が進んでいたり、新潟の社長さんには『希望報酬は木之本さんから聞いている』と言われたり。だいたいのことは先に決められちゃっていたんですよ。そりゃあもちろん『ふざけるな』と思ったこともありますよ。でも、そういう人だとわかっているから僕はケンカしない。やっぱり、生粋の親分肌なんです」

2004年、木之本は株式会社エス・シー・エスという会社を立ち上げて代表取締役に就任した。永井も社員として加わり、地元・千葉でのさまざまな活動を通じて地域密着と若年層の育成を充実させようとする活動を精力的にこなした。今も千葉市を拠点として活動するアブレイズ千葉サッカークラブは、「いつかJ1でジェフと対戦させよう」という野望を抱いて木之本が立ち上げたチームだ。ビジョンを抱いたら即行動。そのスタイルを木之本は最後まで貫き通した。

   

2017年1月15日、木之本はうっ血性心不全によりこの世を去った。

永井が言う。

「自分のことを弟分と見てくれて、サッカーの世界で生きられるように面倒を見てくれて。

本当に感謝しかありません。もしも病気がなかったら、広島の今西和男さんみたいになっていたんじゃないかと思うんですよ。Jリーグでなくジェフの親分。その姿を見てみたかったという思いもありますね」

そして、こう付け加えた。

「でも、あの人、実はそんなにサッカー好きじゃなかったよね?」

加賀山が受け取る。

「最後に冗談ぽく話していましたよ。『加賀山よお、俺はサッカーが好きじゃねえんだよ』と。本当かどうかわからないけれど、サッカーを通じて世の中の役に立ちたい、人の役に立ちたいと思っていたことは間違いないですよね。僕は、病気になったからこそ、死と向き合ったからこそ、木之本さんのパワフルさはより高まったと思うのです。いつ死んでもおかしくないという強迫観念が『日本サッカーのためなら何でもやる』というスタイルを確立させたのではないかと。私自身も本当に感謝しています。物事の考え方、進め方、捉え方のすべてを教えていただきましたから」

最後に清雲が、こう付け加えた。

「ティーチングよりもコーチングに優れた先生だったと思いますね。人を導くことが本当にうまい。加賀山が言うように、病気になったことでもともとの頑張り屋という気質に拍車がかかったところはあると思う。だからこそ、どんどんチャレンジしてみんなを導いていく。そのエネルギーは唯一無二だったと思います」