日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA
カメラマン今井恭司が切り撮った
レジェンドたちの横顔
いまい・きょうじ。1946年生まれ。新潟県出身。
1970年代から国内外の名シーンを切り撮ってきた日本のサッカーカメラマンの第一人者。1985年にスタジオ・アウパを設立。古河電工サッカー部を前身とするジェユナイテッド市原・千葉のオフィシャルカメラマンを務める。
2017年に日本サッカー殿堂入り。
川淵 三郎
強く印象に残っているのは古河電工サッカー部の監督を務められた1970年代前半のことです。川淵さんは監督してもものすごく熱い人で、「とにかく優勝させるんだ」という気持ちが身体から溢れ、チームにも活気がありました。その後の日本サッカー界を先頭に立って牽引していく姿を拝見し、「やはりそういうエネルギーがある人だったんだ」と心から納得しました。
清雲 栄純
誰もが慕うみんなの兄貴分ですね。とにかく律儀で、相手のことを思いやってどこにでも顔を出されるんですよ。奥寺さんが西ドイツに行く時も、帰って来る時も必ず清雲さんが迎えに行かれていました。そういうお人柄だからこそいろいろなシーンで難しい仕事を託されてきたのだろうと思います。「みんなの兄貴分」という振る舞いに救われた人もきっと多いはずです。
小倉 純二
小倉さんはものすごく“いい人”です。話がとてもお上手で、それでいて目の前にいる相手が何を考えているのかをちゃんと想像している人。あれだけ優しい表情をするのに、相手をきちっと見極める鋭い目を持っていますよね。周囲にあれほど強烈なキャラクターの人が大勢いる中で、上手にバランスを取りながら話を進められる人はきっと小倉さんしかいません。
奥寺 康彦
この写真は1986年5月のキリンカップで撮影しました。ブレーメンには日本に帰国する直前のオクちゃんがいて、パルメイラスにはブラジルに渡って2年目のカズ(三浦知良)がいた。オクちゃんとはいろいろな思い出があるのですが、その後の日本サッカー界に大きな影響を与え、貢献した2人が海外クラブのユニフォームを着て一緒に収まっているこの写真は特に印象に残っています。
永井 良和
生粋のウイングプレーヤーでしたね。漫画『赤き血のイレブン』の主人公のモデルになるくらいスピードがあって、走り方に特徴があるから印象に残るんです。
永井さんは心の中で「俺が一番だ」と思っているに違いないメンタリティーの強さが魅力で、私もそこが大好きでした。人懐こい性格だと思いますが、プライドも高いから調子が悪い時はカメラマンには寄ってきません(笑)。
田嶋 幸三
筑波大時代に日本代表に選ばれてクロアチアのリエカに行きました。意外かもしれませんが、宴会ではみんなが前に出ることを遠慮する中で自ら三枚目の役割を買って出て、ダンスを踊ったり、盛り上げ役を演じた姿が印象に残っています。 選手としてピッチに立った期間は短かったけれど、特別な気遣いをもって行動できる人だからこそさまざまなシーンで大役を任されたのだと思います。
岡田 武史
初めて会ったのは岡田さんがまだ高校生の頃でした。メガネをかけたままヘディングするから驚きました。 最初のお子さんが産まれた時にお宮参りされるということで、私が家族写真を撮ってプレゼントしてさしあげたのです。その後、日本代表監督になった際に「サッカーの入門書を作りたい」とお願いしたら「あの時のことがあるから」と快諾してくれました。とても義理堅い人です。
加藤 好男
好男さんはよく喋る人で、とても面白い人だと思います。古河電工には佐藤長栄さんという素晴らしいゴールキーパーがいてなかなか出番がめぐってこなかった。でも持ち前の研究熱心さで腐るような素振りはまったく見せなかったですよね。コーチになって、中国やタイでも活躍されていてすごいなと。
性格的には大胆に見えて意外と慎重だし、実は筆まめで字がキレイなんですよ。
江尻 篤彦
ジェフ市原時代はリトバルスキーに可愛がられていましたね。フリーキックを教わったり。もっと早く日本代表に入れる選手だったと思うけど、当時はジェフが弱かったから(笑)。
性格的には裏表がなくてすごく素直な人。だから苦しい時期にジェフの監督を引き受けざるを得なかったことは可哀想だった。ミスタージェフと呼ばれる人だから、いつかまた、ジェフの人になってほしいですね。
[第一人者のカメラマン人生]日本サッカーの変化を見つめて
小学校3年生だったか、4年生だったか、その頃に親戚から1台のカメラをもらいました。それがすべての始まりでした。
当時はまだ「写大」と呼ばれていた東京工芸大学への入学を機に、新潟から上京しました。卒業後は大広という広告会社に内弟子として入れてもらい、でも、「憧れの青山に自分の事務所を構えたい」という思いですぐに独立してしまいました。若かったのです(笑)。
大広のつながりで1970年は大阪万博の仕事をやらせていただき、そこでご縁をいただいた建築機器メーカー「コマツ」の仕事を請け負うようになりました。映画『黒部の太陽』にはコマツの重機が貸し出されていたので、石原裕次郎さんとのつながりを持つこともできました。毎日が忙しく、とにかくいろいろな現場の撮影に行きました。
ところが、数年後に始まったオイルショックの影響で広告業界が一気に下火となり、途端に事務所の経営が苦しくなってしまいました。
ちょうどその頃、『サッカーマガジン』の編集部から「やってみない?」と誘われたのが1972年に行われたサントス対日本代表の試合撮影でした。
あの試合は本当にすごかった。当時の日本サッカーリーグはスタンドで閑古鳥が鳴くほどだったのですが、神様ペレの初来日となったあの試合だけは、国立競技場が人で溢れ返るほどの熱狂的な盛り上がりでした。私のギャラは5000円だったと思います。人に聞かれた時は「それが最初のサッカーの仕事だった」と答えています。
当時の『サッカーマガジン』編集部員は3、4人しかいなかったはずです。人手が足りないからカメラマンであっても試合後に選手の話を聞いてくることになり、それを「原稿にして」と頼まれるので文章を書くことになり、「入稿も頼む」と言われて印刷屋さんとの交渉もするようになりました。
私自身、自分がいったい何者なのかわからなくなってしまうくらい大忙しの毎日だったのですが、おかげで編集者としてもひと通りの仕事を経験させてもらうことができました。
そうして少しずつ、いろいろなことを頼まれるようになっていきました。いわゆる物撮りもするし、テレビ戦隊モノの撮影もするし、もちろん執筆もするし、編集全般のお手伝いもする。
まだ電話一本で取材申請をしていた時代でしたから、そのうちに古河電工や三菱、日立のサッカー部と仲良くさせてもらうようになりました。当時のサッカー部員はみなサラリーマンでもありましたから、“ガード下”でお酒を飲むような仲になっても、電車内でばったり出くわしたら誰だかわからない。そんな不思議な関係でした。
古河電工サッカー部に本格的に関わるようになったのは、奥寺康彦さんがブラジルに留学した1976年頃だったと記憶しています。奥寺さんには西ドイツに行かれてからも『サッカーマガジン』の連載で毎月必ずインタビューさせてもらっていたので、私にとっても思い出深い選手のひとりです。
仕事がサッカー中心になったのはJリーグが開幕した1993年頃だったと思います。お世話になっていた小学館がJリーグのオフィシャルパートナーとなったことで、結果的には私が全10チームの選手の宣材写真を撮ることになりました。
その流れで8チームからクラブオフィシャルとして写真を撮ってほしいという依頼をいただきました。
実は、最初に声をかけてくれた8チームの中に、ジェフユナイテッド市原の名前はなかったんですよ。でも結局、開幕ギリギリになってから声がかかって、そこからジェフの仕事をするようになりました。のちに聞いた話では、ジェフは古河電工サッカー部からの流れで「やってくれるもの」と思い込んでいたようです(笑)。
オフィシャルカメラマンとして長く仕事をさせてもらってきましたが、やはり2005年のナビスコカップ優勝は特別な思い出です。私と同じ時期にサッカーを撮り始めたカメラマンがそれぞれ追いかけているクラブのタイトル獲得の瞬間を撮影しているのに、私だけずっとタイトルとは無縁でしたから。だからこそ、いつかジェフがリーグ優勝する瞬間を見たい。日本代表にもジェフ出身の選手が多く入ってほしいと心か ら願っています。
それにしても、まさか半世紀以上もサッカーを撮り続けるなんて思ってもみませんでした。
駆け出しの頃は何もわからず、でも少しずつ顔を覚えてもらい、声をかけてもらえるようになりました。それは決して“当たり前のこと”ではありません。感謝を忘れず、これからもサッカーとジェフを撮り続けたいと思います。
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